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  2. 尾崎放哉

今年の春、百周忌を迎えた尾崎放哉。全国から彼の俳句を愛でる四十名ほどが集い祈りを捧げました。
大正デモクラシー民本主義の啓蒙期、その発信源となった最高学府で学んだ彼は、表現の自由を謳歌し、心の琴線に触れる名句を数多く残したのです。
四季の変化が美しい日本の自然。そしてそこに住まう人々の心情を素直に表現した和歌から日本独特の詩は発展を遂げ、ことばを究極に削ぎ落した俳句、川柳となりついには定形の殻をも破った自由律俳句が誕生するのです。
座る俳人、静の放哉。俊才の誉れ高き少年は、東大入学以降、失恋を期に酒をおぼえ次第に世間の荒波に沈んで行くのです。
酒に溺れ、人を中傷し、迷惑をかけ、金を無心し、傲慢で不遜な態度。まさに無頼の人となってしまったのです。
しかし、学生時代から句作に励む「志」を持ち続け、飾りけのない、自分の心に正直なありのままの気持ちを吐露し読むものの心を大きく揺さぶる渾身の秀作を数多く残した業績は偉大なものです。
「隅田川」とう川端康成氏の作品があります。
氏の亡くなる半年前に発表された小説ですが、その中で老主人公が東京駅で街頭インタビューを受けた際、秋の感想を尋ねられて、

「咳をしても一人」

と答えます。
ノーベル賞を受賞した躁的喧噪動乱の日々から、その後の鬱的寂寥たる日々へ遷った現在の思いを吐露したものなのか。
そこに記された俳句こそ、放哉の自由律俳句なのです。
また或る時「住宅顕信」と云う名を知りました。
生年が近いことにまず少しく驚き、ついで彼は二十五歳の時に夭折していることに哀しみ、死に至った病気が白血病であっことに共感を覚えました。私も幼少期、小児白血病の疑いで検査入院し、二十代には結核で療養生活を余儀無くされたからのです。
そして、顕信の本を手にすると、

「若さとはこんな淋しい春なのか」

その俳句を見て私の魂に衝撃が走りました。こんなにも心を刺戟することばがあったことに驚きそして俳句・人生の師と仰いだのが放哉だったことに納得致しました。
放哉の全集を俳句の師として読み耽った顕信。
弘法大師の『声字実相義』には、宇宙のすべてには「響き」がありそれを音とし、それらすべての音には「言葉」が備わっていると説かれます。
色・声・香・味・触・法という視覚・聴覚・臭覚・味覚・触覚とその知識という感覚の対象はまた、文字として表現解釈することができるのだと説かれるのです。
即ち、この世の全てを表す声・字には真理・仏が宿るのだと。
畢竟、俳句を創作するということが自己の内なる仏を現す修行といえるのではないでしょうか。
ことばを紡ぐ愉しさを知り、秋の夜長、ご自身の想いを句にしたためるのは如何でしょうか。
生きた証を子孫に伝え、滅多に無い百回忌の供養を行ってもらえたなら先祖冥利に尽きると云えるでしょう。

「中外日報」令和7年10月 掲載文


・俳 号  山頭火;サントウカ

本 名  種田正一
生 年  1882年12月3日
没 年  1940年10月11日
享 年  59歳
法 名  山頭火心居士
出 身  山口県佐波郡防府
終焉地  一草庵(愛媛)
人 物  曹洞宗にて得度。但し未度牒(本山の僧籍に正式には登記されていないこと)。

放哉の死に憧れて小豆島へ二度来島する。
自由律俳句の代表的俳人。
経 歴  『層雲』俳句選者
俳 句  分け入つても分け入つても青い山


・荻原井泉水

荻原 井泉水 オギワラ  セイセンスイ

俳 号  井泉水;セイセンスイ
本 名  荻原藤吉
生 年  明治17年6月16日
没 年  昭和51年5月20日
享 年  92歳
出 身  東京芝区神明町(現在の港区浜松町)
人 物  放哉、山頭火の師匠的存在。自由律俳句の代表的俳人。
経 歴  東大大学院終了後、『層雲』創刊、主宰する。
俳 句  仏を信ず麦の穂の青きしんじつ

仏燈かんがりと昼よりかなかな

高野山親王院で夏安居に籠もったときの句である。
高野山で鳴く蝉はひぐらしが主で朝晩の涼やかなころに一斉になきだす。

草もゆる土塀から出ずにしまつた

大正15年、小豆島で放哉が没したのを聞いて弔うために来島したときに詠んだ句である。