5月 11 2008
追想 住宅顕信 (2004年3月)
一昨年だったか、地元の或る俳句の先生から「住宅顕信」と云う名を聞いた。
私の弟と数日違いの生年月日であることにまず驚いた。
ついで、彼は25歳の時に夭折していることに哀しみ、
死に至った病気が白血病であったことに共感を覚えた。
-私も保育園のとき、小児白血病の疑いで横浜市大病院に入院した記憶があるのだ-
そして、『住宅顕信 読本』という本を借りてその表紙に
若さとはこんな淋しい春なのか
という俳句を見つけて、私の魂はぶっ飛んでしまった。
それからしばらく自分の身体が痺れていたことを忘れはしない。
早速、彼に関係する本をすべて取り寄せて彼の世界に暫し耽ってしまった。
顕信は、尾崎放哉をこよなく愛し、研究した。
放哉全集を病院のベットに持ち込み、真っ黒になるまで本に書き込んだ。
子育てをしたベットの上で共に・・・
その放哉も42才で鬼籍の人となっている。
放哉の所属した「層雲」の同人である山頭火は、放哉の死に方を羨ましがった。だから小豆島に二度ほど足を運び、放哉の墓に詣でて俳句を詠み島遍路をしている。
『住宅顕信 読本』には、彼と同世代の辻仁成と香山リカとの対談が掲載されいた。自由律俳句がこんな人々にも知られるようになったのかと驚かされたが、彼らにとってそれほど既成の俳句には興味がないようだ。
彼らなりのフィーリングで顕信句にアプローチをしているところが面白く斬新に感じられた。
実は、私も顕信の亡くなった25歳の夏、療養生活を余儀なくされた。
丘の上に建つ木造の古びた病棟の庭から、東京湾を出入りする船を遙かに見やることが出来た。
昼は、同室の人や見舞いの人との談笑で淋しいとは思わなかったが夜になり物音が静まりかえると、
青春とはこんな淋しい夏なのか
と、顕信の俳句ではないがそう云う思いに纏われた。
ちょうど、私は残暑の頃から冬にかけての療養であったので、行く夏の淋しさを痛感していたのだ。
でも、朝になるとまた人の温もりによって淋しさを忘れることができた。
そんな時、どんな本を読み音楽を聴いていただろうか?
なかなか眠られずに消灯から深夜まで数時間、確かに何かを聴いていた。
咳をしても一人 放哉
そんな悶々とした、そして、寂漠たる夜が続いた。
顕信が憧れた「尾崎放哉」。彼の生き方も壮絶だった。
放哉の東大時代の同級生にして俳句の師匠、荻原井泉水のように
月光ほろほろ風鈴にたはむれ
・・・この詠など、夏の夜に何処からかドビッシーの音楽が聴こえてきそうな、
そう、単純に「月の光」でそう連想してしまうのだが、モルダウの如く昂揚する血を連想することもなく、ミュシャのまだ、ポスター画きのころの、あのロマンティックで幻想的なイラストの如く・・・
サラ・ブライトマンのディーヴァの歌声を連想してもよい・・・
そんな、夢幻の如くある人生。
醇美であり、哀しくもあり
嗚呼、浄寂光土の言霊の響きよ・・・