圓満寺

小豆島霊場第74番

讃岐 小豆島
言霊綴り

アジア諸国との共利群生(2006年1月六大新報掲載)

 

1、靖国参拝の問題

小泉首相の靖国神社参拝における一連の訴訟において昨年九月二九日の東京高裁では私的参拝と判断され、翌三十日の大阪高裁では「違憲」との判断が下った。このことは憲法第八十九条の解釈と認識に各判事によって寛容・狭量もしくは肯定・否定等の判断の相違が存在することを顕著に示している。
これまで地裁・高裁で判決が下された十件に及ぶ靖国参拝をめぐる憲法判断は、第八十九条における「宗教もしくは公でない慈善事業への公金使用の禁止」を定める項目を判断の核心部分として捉えるものとなっている。
具体的には、首相が公用車を使用したか否か、記帳の肩書き、公設秘書官などの公職者の同行の有無、玉串料の出処等からその参拝は公的か私的かを判断するものであった。つまり憲法第二十条第一項と三項に標榜されるといわれる政教分離の本質的精神に触れるものではないのが現状である。
昨年の大阪高裁の判決に対して新聞各社のうち朝日・毎日は参拝を違憲と考え、読売・産経は参拝に肯定的姿勢を示している。
かくして、首相の靖国神社参拝の直後に中韓両国は激しく日本政府を非難した。これまでも両国は太平洋戦争における日本の戦争責任として大日本帝国の国家的行為によって蒙った人的物的被害への実践としての謝罪行為を求めているのであるが、A級戦犯が合祀されている神社への首相の参拝は両国国民の感情を逆撫でするものであるからだ。
つまり、日本のナショナリズムの精神的象徴として用いられた靖国神社に極東軍事裁判で重大犯罪者として裁かれ死刑に処せられたA級戦犯を「英霊」として祭祀することは、先の戦争の肯定であり、それこそが口先だけの反省に過ぎないと指摘するのである。
さらにその憤慨の深奥には強い危機感を伴っていると考えられる。それは広く東アジア一体に息づく儒教の「魂魄」の考え方からもたらされる。つまり時を越え場所を違えようとも不死の魂は、新たな身体である「魄」を獲得することにより復活し、災禍を再びもたらすのではないかと畏れるのである。
それに対して戦没者追悼施設としての靖国神社へのA級戦犯合祀は一般の日本人の原宗教意識からすれば「お国のために殉じた英霊を祀ってあげたい」と考えるのは加地伸行氏が産経新聞「正論」で述べられるとおり至極当然のことである。だが、強制祭祀や首相の参拝となると国民の意見も賛否両論、難しい問題となってくる。
昨今、日本人の原宗教意識は戦後アメリカが意図的に作り上げた憲法どおりとならず年月を経てそれが次第に発現するようになってきている。
ここで言うアメリカの意図とは、ナショナリズムの復活を危惧し、再び宗教と国家とが結びつかないように日本人の宗教意識を変容させようとした事を指す。
そもそも国家神道を「祭政一致」と見るか、それとも近代国家として政教分離策を執るものとして「非宗教」と見るか、明治期より長きにわたって論戦が繰り広げられてきた。
維新後、神道各流派は浄土真宗の島地黙雷師による「神道は皇室の治教にして、宗教に非ざるなり」という「神道非宗教論」によって立場を質されたが、明治十五年に政府が「神官教導職分離令」を公布して神職の布教活動と葬儀を限定して祭祀と宗教の分離を推進し、ついには国家運営の根幹となる皇室の祭祀と儀礼との統合体系として「国家神道」を成立させるに至る。
つまり、神道は宗教を超えた次元のものとする「非宗教」説を以てして国家の枠組みに合法的に組み込んだのである。この後、幾つかの戦争を経て軍事大国化して行く中、戦没者を国家の礎の柱となった「英霊」として厳かに祀る靖国神社は、「国家神道」としての象徴的存在に成って行った。戦後においても靖国神社を国立の非宗教追悼施設として合法化する企てはあったがそれは成し得ていない。
この様なナショナリズムのひとつの象徴であった靖国神社への首相の参拝自体がA級戦犯の合祀の有無を超えて中韓国民の感情を刺激するところなのである。

2、行き詰まったアジア外交

現在、日中韓には、靖国問題以外にも教科書問題や竹島(韓国名独島)問題。従軍慰安婦問題など多く政治的問題が生じ、その結果、他の二国が日本の国連常任理事国加入へ反対するなど国際会議の間でも相克が露わになってきている。また、昨年十月、国連総会での北朝鮮人権問題を審議する場において北朝鮮は、日本の拉致非難に対して日本のかつての植民地時代の問題を反駁材料として用い、非難の応酬となるなど東アジアの外交の行き詰まりが浮き彫りとなっている。
日本国内にあっては政教分離の憲法は一・二の例外を除いてよく遵守されてきたが、憲法を狭量解釈するがあまり弊害として宗教儀礼を基とする善き慣習が宗教的なものであると排斥され、存亡の危機に陥っている。
例えば、富山県で起きた給食時の「合掌」行為禁止事件がそれである。このままでは醇風美俗たる日本の伝統的道徳・情緒・精神が退廃してしまうのではないかと多くの人が危惧を抱いている。
「祭政一致」から「政教分離」に至ることが近代国家の証である背景には、ヨーロッパ各国のキリスト教と国家政治との深い結びつきがあり、その弊害が顕著であったからだ。我が国に於いても「神道」が明治以後「国家神道」として国家的利権への組み込みがなされ藩閥政治が終焉を迎えた大正期以降も長きに亘ってナショナリズムとともに存在した。
仏教も同様で、維新以前、寺請制度の下、宗門人別改帳の管理によって地域民を統括する役割を担い、幕府の権力下に組み入れられ幕末までその体制が続き、ついには倒幕運動の対象となったのだ。
併せて、仏教側からの一方的な本地垂迹説が神道や国学者の反発を誘い、本居宣長や平田実篤以降の平田学派台頭をもたらす契機となり、さらにはその国学が維新の志士達の思想的バックボーンとなって明治政府の神道派に深く寄与し、ついには「神仏判然令」が発布されるに至る。そして、それが「神仏分離」となりついには倒幕運動の煽りを受けて「廃仏毀釈」運動へと過激化し多くの寺院と仏像が焼き討ちされる憂き目にあった。
以上のように政教一致における宗教の立場はその体制の崩壊後一変し、往々にして悪しきものと見られ排斥される運命にあった。
このようにアジア外交の行き詰まりと同時に政教分離の歴史的有用性と不具合とが顕著になってきているのが現状である。

3、アジア外交の打開策

『想像の共同体』の著者ベネディクト・アンダーソン米コーネル大名誉教授が韓国中央日報(web日本語版、〇五年四月二七日付)において日中韓の民族主義の悪用を戒めると共に「日本は帝国主義期の加害行為について、韓中に謝罪した方がよい」と指摘をしている。教授は同時に中国は大凶作と文化革命で国民を大量に殺し、韓国はベトナム戦争に出兵しその主体に関わりなく人を殺したということを謝罪すべきであると指摘している点からも教授の立場は冷静かつ客観的な視点に立っているものと考えらる。
故に「日本のこれまでの中韓への戦争加害者としての謝罪は、真の謝罪になっていなかった」とするアンダーソン教授の進言を真摯に受け止め、行き詰まった東アジア外交の方策を真剣に考えなければならない。
その方策として、民族主義を超えるグローバルな国家政策とその思想的背景に存在すべき宗教のあり方について考えなければならないだろう。
まず、中長期的展望として宗立大学における研究機関の形成が必要である。
例えば、文部科学省が推進するプロジェクト、「二一世紀COEプログラム」に採択され得る宗立大学研究プロジェクトとして東アジアと文化交流を研究テーマとする部門を宗立大学研究機関内に構築し、この研究により国内外の学術領域に於ける東アジア間相互の文化認知度を上げ、東アジア各国大学との研究交流を活発に行うことにより若き研究者の相互交流、育成と研究成果に期待が持てる。
また次に、「仏教シンクタンク」の形成が挙げられよう。このことは仏教の教えが外交等の政策に対して善きフォローが出来得ると考えるからだ。つまり、「さとりの智慧を実践し、方策として実現して行く」こと。
それも特定の政党や結社に依らずブッダの智慧に依る行動規範、思想形成、道徳倫理的素養の開発を目指すものである。
ここで問題なのは、政策への宗教的影響である。また、あからさまな国家政党へ接近迎合は先にも述べたとおり、次第に国権へ組み込まれる事態に陥る轍を踏むようになる。それ故、如何なる宗教もこのような事態は避けるべきであり、それを企てる宗教があるのなら直截な批判を加えなければならない。
仏教による外交打開の方策として直ぐにでも行える具体的な例として、「怨親平等」が考えられる。
古くは元寇の弘安の役に敵味方の区別なく戦没者を供養したものであり、高野山には薩摩藩主島津義弘候建立の「高麗陣敵味方供養碑」がある。それは文禄・慶長の役での敵味方の戦没者を供養するものである。
もっとも靖国神社境内にも小さな鎮霊社という、すべての戦争犠牲者を祀る建物があるのだがあまり知られていない。「すべての戦争犠牲者を平等に祀る」ことを主とする祭祀形態への靖国神社の歩み寄りが必要であろう。
何故なら現在でも外国の敵側戦没者はもとより自国における内戦の敵側戦没者すら祭祀しようとしない靖国神社は、戦前の帝国主義の国権の枠組みに存在した「国家神道」と変わらぬ印象を国内外の人々に与えてしまうからである。
それ故、「信仰の共同体」として、「怨親平等」の精神を持つ仏教と日本の風土に根ざした神道とが平等にその関係を再構築できないものかと真剣に考えてしまう。

4、ブッダの教え

祖師ナーガールジュナ(龍樹)は、王と政道のあるべき姿を『ラトナーヴァリー(宝行王正論)』に詳細に説く。即ち、王(国家)の為すべき行為として慈愛と恩恵を人々に与える法に適った政道こそ王の執るべき道であり、その実践として、施し(布施)・慈愛のこもる言葉(愛語)・有益な行為(利行)・協力(同事)の「四摂事」を挙げている。
また、インド被抑圧カーストの地位向上に尽力したB・R・アンベードカル氏(現インド憲法の起草者)は、晩年に約五十万人の被抑圧カーストの人々とともに仏教に改宗した。
その英断の源泉は彼の著書「ブッダとそのダンマ」において示される。その著書のなかで氏は、ブッダの「ダンマ(法・真理)」は神への儀礼・祭祀としての宗教とは異なり人と人との関係における普遍的な道徳であるところに特徴を見出して仏教に帰依する機縁を述べ、「ダンマ」に照らして社会・政治問題に触れ戦争悪と戦争の勝者への戒めを説いている。
そして、一九五一年、サンフランシスコ平和会議でスリランカ、ジャヤワルデネ外相(のち大統領)の演説では、ブッダの『ダンマパダ』から言葉を引用し「憎しみは憎しみによって止まず、ただ愛によってのみ止む」と語り、仏教がアジア諸国を結びつけ今なお共通の文化としてあり、一般の日本人は今も尚ブッダの教えを生かし平和を願っているとして我々日本人に独立の機会を与えてくれたのである。
アジアのこの尊敬すべき慈悲の心を持った国々の恩顧に報いるためにも報恩行に自発的に努めるべきであり近隣国の反日非難の声によって再びナショナリズムに陥り、復讐の外交を行うことなく慈悲の心でもって非難の声の真実を知り、法に則った対処を講ずべきではないだろうか。

宗教の再検討

 はじめに

イエス・キリストの神話は、『死海文書』の発見・研究によって崩壊した。しかし、そのことによって人間臭く、より真実に近いイエスの実像が浮かび上がってきたのである。

『死海文書』には、イエスの両親がクムラン教団に入信していたこと。そこに於いてイエスは生まれ育ったこと。クムラン教団はユダヤ教の一派、エッセネ派と反ローマ主義のゼロテ党との間に密接な関係をもち、成人して指導者となっていくイエスの汎人類的な生き方や教えがユダヤ教とユダヤの民の宗教的政治的危機を助長する扇動者として捉えられていたのである。

それらを踏まえて研究者は、聖書・福音書の再検討に取り掛かりイエスの真実の言葉を抽出する作業などを行いイエス再評価の素晴らしい結果を生み出す原動力としたのである。

一方、仏教に於いても多くの学者の研究によって釈尊の実像が明らかになってきた。釈尊当時のインドには、今日の日本のように数多くの新宗教が発生して宗教的政治的問題を惹起せしめた。それは、ブラフマニズムに於けるバラモンを最高階級とするチャートゥル・ヴァルナ(四姓)なる身分制度の否定や常識化慣習化されたヴェーダによる宗教観・世界観への改革であった。

そして、まさしく釈尊は改革者の雄であった。

大光明たる改革者釈尊のさとりは、時代を経てインド的受容と展開をなし、その教えが一方で中国に伝わり、その地の文化を吸収して半島や日本へと伝播した。風土民族文化を経るごとに様々な仏典解釈と常識が付加され、革新の光明が伝統と格式という衣を纏うこととなった。  釈尊から二千数百年、はじめバラモンとなることを嫌った沙門たちは、今まさに、バラモン化してしまったのである。その結果、経説と実際との間に、多くの問題を背負う事態に陥ってしまった。  いま、特定の思想主義に限ることなく、僧侶に対して否定的な見解を説く者が多く現れている。そして、彼らは、「僧侶不用論」を旗印に活発な既成仏教批判を行っている。何故、《仏・法・僧》の三宝のひとつである筈の僧侶が不用であり不要であるのか。仏教存続の危機とも成り得るこの事態について考察してみる。

(1)なぜ僧侶が不用なのか

「仏教は自己の宗教心を必要としない」。有り難い僧侶の強力な供養の力をもってなくしては先祖の供養や病気平癒の祈願は達成できない。そうであるならば、在家の信者はただ、僧侶の供養の力、加持力によらねばならぬ。それが「異常な事態」でなくして何なのであるか。そもそもほとけや本尊との間に僧侶という介在者がどうして存在しなくてはならないのか。ほとけと直接対話することは不可能なことなのか。  大乗仏教の標榜する菩薩行には、『維摩経』に示されるが如く在家居士の道が説かれている。菩薩への道は、一人一人の独自の修行道であり介在者など必要ないのである。

さらに悪しきことには、介在者は己が立場を護持し増大させるために様々な理屈や根拠を持ち出して仏法を曲解させている。そして、多くの権威の発揚と過度な機構を設け不必要な荘厳に満ちた儀式を創作して営んでいるのである。

本来、仏教の指導者はひたすらさとりへと向かう純粋で清貧なものであった。しかし、現実の僧侶は医師や弁護士のように専門の知識を誇示して喪主や施主となる檀信徒に絶対的な服従を強要し、搾取を行うのにすぎない。そして、僧侶の実態は金や異性に溺れる生臭い色欲集団と化し、説くところの法話は在家信者の知識より乏しく品性下劣なのが現実である。 そのような僧侶に師の礼を尽くさなければならない必要があるのか…。

以上が僧侶に対して否定的な見解を示す者たちの僧侶への思いであり、僧侶不用論の根拠なのである。  これらをまとめると、

①僧侶の資質の問題。 ②官制仏教への失望。

という二点に絞ることができよう。 次にこの二種の問題点について順次考察してみる。

(2) 僧侶の資質の問題について

①出家と在家

原始、釈尊の教えに従う四衆は、それぞれ戒を受けて修行した。そのうち比丘・比丘尼は、出家者でありサンガ・ヴィハーラに集い社会的束縛を一切離れ職業に従事することなく専ら律という生活の規範に従って日々を暮らし、さとりへ向かうため戒を勤め、さとりのための学問と遊行を行った。ただこのさとりは無学の境地をさいたが。それに対して優婆塞・優婆夷は在家の修行者であり一般社会にあり職業を持ち社会の一員としての義務と責任を果たしつつ生活し、その中で守ることのできる戒律を部分的に受け一生あるいは一定期間の修行行為を行った。そのため、目指すところの境地と志向、質には自ずから差異が生じたのである。

大乗仏教に移譲して「空」の実践・菩薩行における出家主義の流れは、《縁起・無自性・空》という空性を智恵によってさとり解脱して至福へと至ることを目指し、そのために智恵の資糧を積み究極の真理を得て諸仏の法身に至る「勝義の道」と、在家者が方便と慈悲によって信仰を持ち幸福となって繁栄がもたらされることを目指し、そのために福徳の資糧を積み止悪行善を全うして諸仏の色身に至る「世俗の道」という二諦が示される。そこには出家者だけに絶対的な価値を認めないまでも、世俗を捨てて出家することが究極の意味に於いて執るべき態度である立場が顕正される。  そして、智恵と福徳の資糧を得てさとりへと向かう意志の源泉は原始仏教時代と何ら変わることなく「戒」によるのである。     ②戒の持つ意味

仏教の一方の究極の形態は密教である。釈尊の教えが多種に分化展開をなし、密教に変革しても尚、まず修行のはじめに 「戒律」を厳しく授けるのである。 空海の『三昧耶戒序』に於いて二種の戒を説く。   戒に二種あり。一には毘奈耶、此には調伏と翻ず。二には尸羅。翻じて清涼寂静という。 はじめの毘奈耶は「律」と訳される。尸羅は 「戒」と訳される。ここでは戒の通釈されるところの「戒律」の意味が示される。しかし、元来二者は似て否なるものでり、「戒」とは我心をよく制御・抑制して、さらに「戒」を持すことが心の善行為の発動根拠となり、その根拠からさとりへの方法ー例えば六(ときに七あるいは十)波羅蜜や四摂事、四恩の報行ーをよく守り達成することの原動力となるのである。

③戒の種類

さらに空海の『秘密三昧耶仏戒儀』を見ると、

○三帰・三竟戒   ○発菩提心戒

さらには、

○清浄三昧耶戒   ○清浄妙戒(三聚浄戒)   ○諸禁戒

などが示されている。また、十善戒は『十住心論』や『弘仁の遺誡』に詳しく説かれる。そして、それらの戒を得度や授戒時に授けるのである。

戒を現代的に解釈するならば、戒とは「~しよう」という意志でり、「~します」という誓いであり、「~できますように」という願いであると言える。さらに、十善戒の不殺生を例に挙げれば、ただ「生きと生けるものを殺してはいけない」という受動的で消極的な捉え方よりも「すべての生命を育む努力」を為すこと。自分の命であるならばその「能力を正しく生かし伸ばして行き、怠惰な生活で自分の生を無駄にしない」という積極的な捉え方をすべきものである。

そして、三帰・三竟にはじまる戒の展開は十善戒の羯磨によって戒体を発し菩提心となり、ついには戒の究極の姿勢を見せる密教独自の三昧耶戒で締め括られる。それは、三心平等の自覚と実践こそが戒の本質であることを示す。  そこで最も重要な問題は出家・在家に関係なく、行うべき修道の源泉である戒を皆、護持しているのかということである。戒には律と違って犯戒の罰則がないことが望ましい。それをよいことに歯止めが利かず何事も容認されてしまう。そのため「戒律」並記される意味がそこにあった。現在、僧侶の戒の不履行によって、

○飲食についての問題  ○戦争時の出征についての問題  ○婚姻についての問題

などの多くの問題が内在し、ときに具現化する。  それら戒を持していない多くの日本の僧侶の現状に上座部仏教圏の国々は、かの地に於いて僧侶として儀式に正式に参列しようとする日本僧侶に対し新たに戒を受けさせるのである。そして行き着く先は、戒を持さない出家者と戒を持す在家の者との間に立場の逆転が起こるのである。

(3)官制仏教への失望について

平安仏教成立以前、推古天皇三十二年(六二四)に設けられた僧官制度、さらには文武帝の僧尼令に於いて私度僧の禁止。そして、三綱制によって僧侶の官職化が行われ、国家の認定により定額僧が年分度されるようになり、日本の仏教は官制仏教の道を歩むことになった。そのため平安朝末にはすでに本来の宗教色を失い、出身門閥によって身分が左右される貴族的官職組織に堕落しつつあった。また、国家の祭政を司る神道と習合して社宮を差配し、郷に土着化し、神道が依った儒教や道教の喪式や回忌供養の儀礼や祈祷祈願を流用してそれを慣習化させたり江戸期には役場の末端としての寺檀制度を構築し、旅行手形を発行するなど特権をもって民を統制した。

仏教とその伝播した国の既存の宗教との融合はインドの隣国、スリランカをはじめとして多く見受けられることではあるが、本邦に於ける神道との習合は天台の本地垂迹説を巧みに操り支配的に包括させたので、のちに国学興隆により尊王者の反感をかい維新に於いて廃仏毀釈となって大打撃を被る結果となった。このとき、廃仏の運動はそれまで役場の末端としての寺と僧侶からしいたげられてきた民衆からも興ってきたことに注目しなければならない。

そのような宗史の中で特筆すべきは官制仏教から在家主義仏教が民衆済度のために分離独立し、反体制的立場をもったことと官職化による僧侶の退廃を憂う真摯な「律師」たちが何度か戒律運動を興して僧侶の綱紀粛正に勤めたことである。 真言律の叡尊、忍性、江戸期の明忍や良永・快円・慧猛の三僧坊、浄厳、慈雲、明治期の釈雲照などの各師がそれである。さらに、戒律運動者は官職僧侶のあまり顧みようとしない民衆の教化救済に尽くしたことが注目される。  現代に於いて仏教は宗教法人法の庇護の下に置かれ、住職は代表役員という正式名称が与えられ一部に安穏としてサラリーマン化している面は否めない。

まとめ

僧侶は戒を護持することが必要である。そして、時に律儀によって行動を制禁せねばならない。それが僧侶の証であるから。そして、自分自身の戒を羯磨によって戒体を具現化するために「布薩」の実際が必要である。

僧侶は現行の法律に甘んじることなく、出世間の法に依って行動規範の源泉となし、現実のあらゆる諸問題に積極的に民衆と共に考え対処し解決して行かなければならない。まず、戒を護持することの必要性から啓蒙をはじめ、護持可能な環境整備が必要である。 これからも出家・在家を問わず高度な知識と能力を備えた若者がより専門的な修道の道、出家の道を志そうと発心し、宗門の扉を叩くことがあるはずである。宗門はその若者を受容する事のできる体制の有無によって繁栄と衰退が決定される。 今までにも、能力ある寺院子弟の寺離れや、在家の若者の新宗教や修養団体に入信する現実がそこにある。

「僧侶不用」の見解は一理はあると言える。しかし、持戒精勤の修道者である僧侶を否定することはできない。それは彼らの目指すところでもあるから。