いれものがない両手でうける
咳をしても一人
大正時代、荻原井泉水主催の『層雲』は自由律の俳句雑誌であった。
そして、『層雲』から自由なる心の叫びを詠じた3人の俳人が輩出した。
ひとりは井泉水。
いまひとりは種田山頭火。
そして、ここ小豆島が易簀の地となった放哉、尾崎放哉その人である。
放哉の俳句の素晴らしさを知らない人が多い。
何故なら、その生涯が教科書に掲載するのには適さないからである。
芭蕉や一茶、子規は教育的であっても放哉は教育的ではないという。
事実、
酒に溺れ、人を中傷し、迷惑をかけ、金を無心し、妻を捨て、傲慢、不遜…まさに無頼の人である。
しかし、学生時代からの句作に励む“志”を持ち続け、飾りけのない、自分の心に正直なありのままの気持ちを吐露して、読むものの心を揺さぶる渾身の秀作を数多く残した業績は偉大である。
放哉の素行は、真似すべきではないが、ひとつのことを全うし、自分の瞬間瞬間の思いを芸術までに昇華させ、多くの人の心を震わし感動を与えたことは傾首に値するものである。
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4月7日は、全国の放哉ファンが西光寺へ集いささやかな法要を営む「放哉忌」です。
法要の後、近くにある地区の共同墓地内西光寺墓所の一角に佇む彼の墓石に参り、線香とお酒を手向け、墓地入り口にある小豆島南郷庵放哉記念館に立ち寄ったのち、寺でジュニア放哉賞の発表や講演などの記念行事が執り行われます。
俳優の故渥美清さんは、生前、放哉の句が大変好きで「フウテンの寅さん」に代わって「放哉」を演じてみたいと考えていたそうです。
氏の「放哉」を見ることができなかったのが残念です。
また、「隅田川」とう川端康成氏の作品があります。
彼の死の半年前に発表されたものですが、その中で老主人公が東京駅で街頭インタビューを受けた際、秋の感想を訊ねられて、
「咳をしても一人」
と答えます。
ノーベル賞を受賞した躁的喧噪の一時とその後の鬱的寂寥たる今の思いを吐露したではないでしょうか。
放哉の手紙
尾崎 放哉 オザキ ホウサイ
俳 号 放哉;ホウサイ
本 名 尾崎 秀樹;オザキ ヒデキ
生 年 明治18年(1885)1月20日
没 年 大正15年(1926)4月7日
享 年 41歳
戒 名 大空放哉居士
はじめ院号が付かれたが、井泉水の「放哉には院号は似合わない」との言葉で除かれた
出 身 鳥取県
終焉地 小豆島西光寺奥の院南郷庵(香川)
放哉易簀の地“南郷庵” 現在は放哉記念館
(大正14年8月20日入庵~大正15年4月7日没)
人 物 荻原井泉水、山頭火と並ぶ自由律俳句の代表的俳人。
経 歴 第一高等学校、東京帝国大学法科卒業
「層雲」同人
俳 句 いれものがない両手でうける
小豆島尾崎放哉記念館
記念館の中庭